意外に新入会員が多くて喜ばしい今日この頃であるわけだが、そういうわけで各論に入る前にこのコーナーの現在のスタンスをもう少し明確にしておこうと思う。もちろんここはRPGにおける様々な問題を扱うコーナーであるが、前回でも述べたように人によって問題意識の向かう方向が異なっているからである。
現在までのところ、RPGの問題意識は3つに大別される。敢えて見出しを付けるならば「ゲーム上の問題」「経営上の問題」「文化面の問題」といったところであろう。
「ゲーム上の問題」はRPGゲーマーにとって最も身近である。つまりこれはRPGのゲームとしての側面に対して問題意識を持ち、ゲームとしておもしろいものを作っていこうという動きを指すわけであり、ゲームバランスがどうこう、この技能は強すぎるから制限した方が良いとか、このクラスは弱すぎるから強化した方が良いとか、そういった議論はここに属する。そして現状ではRPGに対する問題意識はほとんどがこのゲーム上の問題に向かっているため、RPGの問題を考えるというとこのゲーム上の問題だけしか念頭に置くことのできない人が多い。一方で近年の私の記事の場合であるが、このゲーム上の問題をほとんど扱っていないため一部からはあまりRPG的ではないとみなされているようである。
「経営上の問題」もわかりにくいものではない。要するにRPGをもう一度流行させるにはどうしたらいいか、RPGが市民権を得るには、RPGがやりやすい環境のためにはどうあるべきかといった類の問題である。言うまでもなくRPGは衰退し続けているためにこの問題は火急のものであるが、必ずしも有効な結論が出ているとは言いがたいし、たとえ有効な方策が打ち出されたにしてもそれが実行に移されていないのは結果から明らかである。私もこの経営上の問題に関しては多少なりとも書いていたわけであるが、今に至るも打開策を見出し得てはいない。もっともこれはどちらかと言えばファンよりもメーカーの側に意識してもらいたい問題であるし、読者に発表するよりも計画し実行することの方が求められる問題ではある。
3つ目の「文化面の問題」とは暫定的な見出しである。そもそもこの分類自体、私が説明の都合上作り上げたものに過ぎない訳で、その境界も必ずしも明瞭ではない。しかしそれでも前二者に含まれない、そしてRPG界にあって議論から抜け落ちている視点として私はこの文化面の問題という枠組みを提唱したい。具体例としてはこのコーナーの各論の部分を読んでもらった方が話は早いわけであるが、要するにゲームとしての枠にとらわれず広く文化現象一般からRPGにアプローチしていこうというものである。だからRPG以外のものも扱う訳であり、その結果として必然的に典型的なRPG記事とは違ったものになるし、そこで目指されているものも単なるゲーム的なおもしろさ、経営上の成功とは違ったものとなる。
「指輪物語」から「ロード・オブ・ザ・リング」へ
ハリー・ポッター少年の物語がベストセラー化されて以来、ファンタジー作品の置かれる位置は変わってきた。これは比喩的なことを言っているのではない。従来は書店の片隅、いかがわしい本かあるいは子供向けの本のコーナーに置かれていたファンタジー作品がベストセラーのコーナーに平積みされるようになったのであり、まさに字句通り置かれる位置が変わったのである。問題点は少なくないのだが、それでも総合的に見ればファンタジーにとって追い風であることは確かだろうし、ファンタジーを背景世界とするゲームにとっても一つの好機であることは間違いない。
今まで店頭で見かけることがまず不可能であった過去の作品にまで増刷がかかりファンタジーのバブルを思わせる現状ではあるが、このような動きの中で最も注目されたのは映画「ロード・オブ・ザ・リング」であろう。言わずもがなではあるが原作はトールキンでその邦題は『指輪物語』。この作品は過去にも一度映画化されてその時の邦題はそのまま「指輪物語」であったが、今回の新しい映画の邦題は「ロード・オブ・ザ・リング」(以下「ロード」と略す)であった。原題はTHE
LORD OF THE RINGSなので「指輪物語」はこれを和訳したもの、「ロード」はカタカナ化したものということになる。そしてここで問題として扱いたいのは「指輪物語」という邦題がそれだけで全体を貫く翻訳の性質を示しているという点であり、そのことは「ロード」と並べてみればよりはっきりする。
「指輪物語」と「ロード」の相違点は数限りなくあろうが、注目したいのはその普通名詞の扱いである。「指輪物語」における“ゴクリ”は「ロード」において“ゴラム”(これは擬音語で、何かを飲み込む音などに使われる)と訳され、“馳夫”は“ストライダー”と訳された。どちらも前者が原文の普通名詞を和訳したもので、後者が原文の普通名詞をカタカナ化したものである。これが「指輪物語」と「ロード」を隔てている点の一つであり、前者は普通名詞を和訳する傾向が強く、後者は普通名詞をカタカナ化する傾向が強いのである。「ロード」の場合はこのカタカナ化に違和感を訴えるファンが多いようであるがこれは例外的な現象であり、時代の好みは明らかに和訳ではなくカタカナ化にある。言うまでもなく「ロード」のように映画の邦題は原題を和訳するのではなくただカタカナ化しただけの場合がきわめて多いわけであるが、しかるにRPGもその風潮を免れているわけではない。
このことはRPGのルールブックなりを広げてもらえればすぐにわかる通り、カタカナ化された英語はどこにでもあふれている。和訳とカタカナ化のどちらが望ましいかという点に関しては好みの問題もあるが、しかし架空の世界を舞台とする場合は可能な限りカタカナ化ではなく和訳を選択するべきである。例えば背景となる世界がアメリカであったり、あるいはアメリカ化の進行する現実世界及びその延長上にある世界である場合、そこには間違いなく英語が存在する。そしてその英語を和訳しようとカタカナ化しようと、それは趣味の問題であって取り立てて問題視するほどのものではない。しかしアメリカとは何ら関係のない世界においてはどうだろうか?
RPGにおける言語の問題はMODO73号掲載の「禁断のMODOのアレ」に詳しいのでそちらも併読していただきたいが、とりあえずここでは架空の世界における英語の存在を考えてみたい。まず理解しておいて貰いたいのは、架空の世界には英語の存在する謂われなどないということであり、英語が存在しない以上、英語のカタカナ化もあり得ないということである。その世界において英語が使われている場合、例えばFIREという言葉があったとしよう。これを炎ではなくファイアと書くのは許される。しかしОГОНЬ*1をファイアと書くことはできないはずである。カタカナ化すればアゴーニ、和訳すれば炎と表記することが可能だが、ファイアという表記はあり得ないはずである。
逆の場合、すなわち和訳なりカタカナ化された状態から原語を考えてみよう。まず炎と表記された場合であるが、この場合はFIREやОГОНЬ、あるいはもっと別の言葉が推察される。ではファイアとあった場合は? この場合解答は一つ、推察される原語はFIREしかない。ファイアからОГОНЬあるいは別の言葉を推察することはできないはずだし、アゴーニからFIREは推察できないはずである。
和訳されたものに登場するカタカナは原語の音を写し取ったものと見るべきであろうが、ところがもしそうである場合、多くのファンタジー世界に英語が存在することが証明されてしまう。アシッド・クイーン、スローハンド、デイドリーム、リトルローズ、ディアスポラ・・・これらはある国産ファンタジーRPGから拾ってきたカタカナであるが、英語の存在を強烈に感じさせる。なぜ辛辣な女王でもなくキースラヤ・ツァリーツァでもなくアシッド・クイーンなのか? アシッド・クイーンというカタカナ化を成立させられるのはACID
QUEENをおいて他には考えられない。少なくともКИСЛАЯ ЦАРИЦАや別の何らかの言葉をアシッド・クイーンとカタカナ化することはできなかったはずである。
指輪物語の場合にも同様の問題がある。特に「ロード」の側に問題があるわけで、馳夫ならぬストライダー、ゴクリならぬゴラムは英語の存在を如実に感じさせる。これは確かに一面では間違ってはいない。話を映画に限ってみれば間違いなく原語は英語なのであり、ストライダーもゴラムも間違った和訳とは言いきれないのである。しかもこれらは固有名詞としての側面も併せ持っている。歴史上、蝶々夫人をMADAM
BUTTERFLYと訳したケースもあれば、あろう事か佐藤をSUGARと訳したケースもある。しかしこういった風習は今や滅びつつあり、原語の音だけを自国の文字で置き換えるのが現在では主流となっている。文学作品の翻訳を見てもПОДКОЛЕСИН(ゴーゴリ『結婚』)とは車輪の下の意であるが、それでも車輪の下さんとはせずにポドコリョーシンと書くし、СОБАКЕВИЧ(ゴーゴリ『死せる魂』)は雌犬の息子の意であるがサノバビッチ氏とは書かずにソバケーヴィチと書く。だからストライダーもゴラムも一面では問題がない。
だが、本当に原語は英語なのだろうか? ストライダー、ゴラムという表記は指輪物語世界の中にもSTRIDER,GOLLUMが存在するかのような錯覚を与えるのだが、これは疑わしい。指輪物語世界(中つ国あるいはミドルアースと書かれるが、これも一つの例である)には英語が存在しているのだろうか? 実のところ指輪物語に登場するホビット達の多くは英米人風の名前をしており、英語の存在を窺わせるところがないわけではない。とはいえ現実とは何の関係もない別の世界と設定されている以上、指輪物語世界には英語が存在しないという仮定の下に考察をつづけてみよう。
もし指輪物語世界に英語が存在しないとした場合、STRIDERとGOLLUMという英語の普通名詞はどこから来たのか? 一つの考えられる解答としては、それらはトールキンの英訳の際に登場したというものである。馳夫、あるいは喉を鳴らす音を意味する指輪物語の世界内言語で呼ばれていた両者を英語で描写する際に世界内言語の英訳としてSTRIDERとGOLLUMが登場してきたのではないだろうか? おそらく指輪物語の世界では登場人物は誰一人として英語を話してはおらず、STRIDERともGOLLUMとも言っていないはずである。作中人物はそれらの普通名詞に相当する世界内言語を用いて呼びかけているはずなのであり、その世界内言語が英訳された時点で初めてSTRIDERとGOLLUMが誕生したのである。少なくとも『指輪物語』における翻訳はその観点に立っており、英訳された名前をではなく書かれていない世界内言語を翻訳している。そして逆に「ロード」は英語に基づいているわけである(最終頁に掲げた図式も参照のこと)。
ところが『指輪物語』の翻訳といえども必ずしも一貫しているわけではなく、世界内言語を和訳する代わりに英訳された世界内言語をカタカナ化するにとどまっているケースが珍しくないのである。その代表例は「エルフ」である。架空世界の世界内言語に関しては全くと言っていいほど無神経な作家が多い中、トールキンはエルフの言葉には異常なまでの神経を割いており、幸いにも資料に事欠かない。そしてそのエルフの言葉であるが、彼らの語彙に「エルフ」というものはない。彼らは自らの種族を「エルフ」とは呼ばず「クェンディ」と呼ぶ。だから指輪物語にはエルフではなくクェンディと表記される可能性もあったのである。ところが書かれたのは「エルフ」だった。これは自らをロマと呼ぶ集団をジプシーと表記し、自らをイヌイットと呼ぶ集団をエスキモーと表記するのとは違う。ロマやイヌイットが別の名で呼ばれるのは彼らをジプシーやエスキモーと呼ぶ集団の方が勢力が強かったからであるが、クェンディがエルフと呼ばれるのはそれとは事情が違うのである。
エルフは自らをクェンディと呼ぶ。では他の集団、つまりエルフ以外の種族はエルフをどう呼んだのか? 残念ながらエルフの言葉以外には資料がない。しかし私には思われるのだが、彼らはエルフをELFとは呼んでいない。ELFというのはトールキンがクェンディを英訳した際に用いた言葉であって、世界内言語ではないはずである。エルフをクェンディとは呼ばないにせよ、ELFとは別の、彼ら独自の世界内言語でエルフを呼んでいたように私には思われるのである。だからELFはいかに和訳されるべきであったのか? ELFをただカタカナ化するということは、「エルフ」を世界内言語として認めるということになってしまう。世界内ではELFに相当する世界内言語が用いられていたはずで、和訳されるべきはそっちの方ではなかったか? 「妖精」とかその類の訳語ではニュアンスが若干違ってくるかもしれないが、本来ELFとはそういう意味であった。その点でトールキンはELFの意味を拡大したと言えそうであるが、同時に『指輪物語』の翻訳語「エルフ」もまた独自の歩みを始めてしまった。日本語にELFとは別の「エルフ」が誕生してしまったのである。
*1 ロシア語で炎の意味。以下に登場する見慣れない文字は全てロシア語である。
エルフの誕生
今日ゲーマーの間でエルフと言ったら何を表すか? 少なくともELFが従来意味していたものとのイメージの一致はもはや起こらないであろう。しかもそれはトールキンが描いたクェンディとも違う。最大公約数的なイメージはおそらく『ロードス島戦記』のディードリットに端を発するタイプのエルフで、これはクェンディとは全くの別物とは言えないにせよ、独自の性格を持っているのである。トールキンが従来のエルフとは全く違ったイメージの存在であるクェンディをQUENDIではなくELFと表記し、それが妖精でもクェンディでもないエルフと訳されて以来、エルフはELFやクエンディから離れて独自の歩みを始めているのである。
非人間に何らかの奇形は付き物としても、あのエルフの長大化した耳はどこから来たのか? これも通説ではディードリットに端を発する。外国製ファンタジーRPGのイラストで耳の長い人を見たことはないし、そもそも大きい耳は普通は否定的なニュアンスを持っており、それをわざわざ大きく描こうという発想はそうそう出てこないはずなのである。それでも日本で描かれるエルフはと言えばそのことごとくが「耳の長い人」*1なのである。もはや彼らはELFではない。等しくエルフと呼ばれはするが、異種なのである。
実際に我々がエルフという言葉と同時に目にするのは耳の長い人であり、そういうイメージが形成されるのはごくごく自然なことと言える。そして我々がまた新たに耳の長い人をエルフとして描けばより一層、耳の長い人=エルフのイメージが確固たるものとなっていくわけだがそれは初期の段階においてもそうであったに違いない。まだエルフとは何かわかっていなかった頃、エルフの名で紹介されたものは何だったか? 少なくともゲーマーに対して提示されたのは小さな妖精であるELFではなく、クェンディであったり耳の長い人であったりしたはずである。ここから新たなエルフ像ができあがっていくわけだが、しかし新たなイメージを作り出すのであればエルフという既成の言葉に頼る必要はなかったのではないだろうかという疑問は残る。トールキンがクェンディという言葉を作ったように、耳の長い人はオリジナルの名前を与えられてもよかったはずである。なぜ多種多様な彼らは等しくエルフと呼ばれなければならないのか?
同様の問いはグローランサのエルフにも向けることができる。彼らもまたELFともクェンディとも耳の長い人とも違う異種であるが、やはりエルフと呼ばれるのである。彼らは植物的性質を有し、世界内言語ではアルドリアミと呼ばれるが、それでも結局はエルフと表記される。何故か?
クエンディにエルフという訳語をあてる必然性はなかったはずだし、耳の長い人にエルフという言葉をあてる必然性もなければアルドリアミを敢えてアルドリアミではなくエルフと呼ぶ必然性もなかったはずである。おかげでエルフという言葉の意味はすっかり混乱してしまった。何故別の生物に同じ名称をあてがわなければならなかったのか? おそらくはエルフという名称の存在が先に設定されているのだろう。つまり初めにエルフという分類があり、そこに何らかの存在を当てはめていくという形でエルフが作られているのである。初めにエルフという枠組みが作られ、その後から、ではそのエルフとは何なのかという問いがやってくるというわけである。
いつもエルフと対になって持ち出されるのがドワーフであるが、彼らも同様の運命を辿っている。トールキンの世界内言語ではカザードと称する彼らであるが、それでも結局はDWARFという英訳名で登場した。そしてDWARFと言えば小人*2といった風な意味であるが、その和訳名は「ドワーフ」だった。単純ににカタカナ化するならばドワーフではなくドウォーフだし、エルフの場合と同様に指輪物語のドワーフはDWARFとは違った独自の性格を持っているので別の言葉の方がふさわしくも思われるのだが、ともあれドワーフと訳されてしまったのである。
日本のドワーフはエルフの場合と違ってトールキンのドワーフとの目立った違いはないが、それでもDWARFという言葉を離れた独自の存在、DWARFならぬドワーフとして別個に存在している点では変わりがない。グローランサのドワーフもそうであり、彼らは世界内言語ではモスタリであるが、結局のところドワーフと呼ばれる。指輪物語のドワーフとも他の多くのファンタジーRPG世界のドワーフとも異なった工業製品的性格を有する彼らだが、やはり等しくドワーフと呼ばれるのである。
しかるにDWARFを離れたドワーフのイメージはもとのDWARFをすら浸食している。我々ゲーマーはドワーフがDWARFからは独立したものだということを忘れ、ドワーフをDWARF
に対して押しつけてしまっているのである。前回のMODOに掲載された森下氏の手になるガープスレンズマンの翻訳にはその端的な例が見られる。それは惑星プルーアの季節によって変化する太陽に関する箇所(38頁)であるが、森下氏は秋の太陽を黄色いドワーフのように、と訳している。先ほどDWARFは小人の意だと書いたが、そこから転じて矮星の意味もある。太陽なのだからYELLOW
DWARFとあれば黄色矮星のことに決まっているではないかと普通の人であれば考えるであろう箇所なのである。
とはいってもこの箇所は森下氏でなくとも誤訳する可能性のある箇所だろう。我々ゲーマーの頭には強固にDWARF=ドワーフ観が刷り込まれているはずである。私が日常の言葉で話しかけているのにそれをRPG独自の用法でそれを解釈する人が珍しくないくらいだから、DWARFを目にしたとき瞬時にこれはドワーフなのだと考える人がいたとしてもそれは少しも不思議ではない。森下氏は前ページで夏の太陽を青い巨人と訳しているが、これも天体なのだから青色巨星でなければまずい。しかしRPG用語としてのGIANTは巨星である以前にモンスターとしての巨人なのであり、この場合も日常の言葉をRPGの言葉として解釈してしまったというわけであろう。これは模同のゲーマーであれば誰しもがやりかねない誤訳であったように私には思われる。
そしてドワーフと同様にエルフもまた、自らがELFから独立した存在、あるいはELFという訳語をあてられただけの異種であったということを忘れ、エルフによってELFを浸食しようとはしていないだろうか? もちろんこれは語義が拡大される瞬間でもある。しかし現状を見るにつれ、その訳語が与えた影響力に私は驚かされる。トールキンがクェンディをELFと訳さなかったら*3、あるいはELFという普通名詞を『指輪物語』の訳者が和訳せずにそのままエルフとカタカナ化することがなかったら、今日見られるようなELFから独立したエルフの姿はあり得ただろうか? 我々がエルフと言ったときに想起するのはもはやELFとは別種の、それでいてエルフと呼ばれる存在、つまりクェンディや耳の長い人、アルドリアミである。彼らは異種であるが等しくエルフの名で想起され、エルフとして活動する。もし『指輪物語』の訳語がエルフならぬ妖精であったなら、彼らのイメージはELFによって拘束されただろう。エルフという今までの日本語にはなかった言葉を与えられたことで彼らは新種としての独立した発展を許された。一見すると小さな問題である訳語の選択だが、エルフ、あるいはドワーフやトロールの誕生に与えた影響力は計り知れないのである。
*1 「耳の長い人」はニーチェの『ツァラトゥストラ』に登場する。既成の価値観に挑戦状をたたきつけるニーチェだが、そのニーチェの著作においても耳の長い人が肯定的な役割を演じることはない。
*2 今回初めて気付いたのだが、「小人」という言葉をATOKは変換できない。色々試してみたが、どうやら差別用語にあたるものは新たに登録しないと変換できないようになっているらしい。
*3 もしトールキンが普通名詞ELFを使わずにQUENDIで統一したとしたら、英語圏でもELFが蔓延することはなかっただろう。つまり従来ELFの範疇に入らなかった別種の存在QUENDIをELFと書くことはELFではないものをELFと呼ぶことであり、この段階で既に従来のELFから離れた別種のELFが誕生しているのである。
本文理解の一助として以下に簡単な図式を挙げる
英訳 カナ化
何らかの擬音語 ───→ GOLLUM ───→ ゴラム
└──→ ゴクリ ←──┘
和訳*1 和訳
英訳 カナ化
QUENDI ───→ ELF ───→ エルフ
│ 和訳└──→ 妖精?
└──→ クェンディ、あるいは別の新造語*2
*1 この段階では「ゴラム」という訳語が絶対的にあり得ないことに注意していただきたい。
*2 ここも同様に、この段階では「エルフ」という訳語は何の根拠も持つことができない。
いつも通りRPG関係の記事を書いて終わりにしようと思っていたのですが、何でも今回のMODOのテーマは好き勝手に自分の趣味のことを書けということだそうで、せっかくですから日頃書く機会のないことを書いてみることにします。そこで私の趣味といっても色々あるわけですが、今回は音楽を取り上げてみます。ちなみに音楽といっても私は社会通念上の分類でいうところのクラシック音楽専門な訳ですが、まずこのことを皆さんどう思われるでしょう? 何といっても希少なジャンルです。ゲーマーの間ではなおさら希少でしょう。どちらかといえば教養人のポーズを取るために聴かれることが多いのはブレイド・オブ・アルカナというRPGルールブックの音楽紹介のコーナーを見れば一目瞭然であったりもします(詳しいことはMODO73号に掲載されている禁断のMODOのアレを参照してください)。また教養人のポーズを取るのに使われるぐらいで一見したところ社会的地位の高いジャンルなのですが、その一方で実際に聴いている人が少ないために周囲からの謂われのない偏見に苦しめられるジャンルでもあります。例えば私はクラシック専門だと書きましたが、こう書くと私が偏狭な趣味の持ち主だと思われるかもしれません。世間一般ではジャンルにとらわれず良い音楽は良い音楽なのだと分け隔てしないのがあるべき音楽受容のあり方とされていますから、私の音楽受容はこれに真っ向から対立するわけです。実際、複数のジャンルを掛け持ちするような人、特にクラシックと他のジャンルを掛け持ちするような人の社会的評価はおおむね高いものなのです。しかし誤解しないでほしいのは、クラシックの領域にとどまっている人が狭い世界に閉じこもっているわけではないということ、クラシックの領域外に進出している人が広範な音楽受容を行っているわけではないということです。一般にクラシック音楽というと普通の人は一様なイメージしか持っていませんから、私がクラシック専門というと、もっと色々な音楽を聴くべきだと言われるわけです。しかし私は反論したい。私はあなたよりも遙かに多種多様な音楽を聴いていますよと。所有のCDを数えてみたらいつの間にそんなに買ったのか400枚以上あって少し後悔したりもしたわけですが、これはいわゆるクラシック音楽のファンとしては少ない方です。それでもおそらくはたいていの人より、それから私にもっと色々な音楽を聴くべきだと言った人よりも多くの音楽を聴いているはずです。もちろんクラシック音楽であればすべからく一様だと確信している人にはどれほど多くの曲を聴いてもそれがクラシック音楽である限り色々な音楽を聴いたことにはならないのでしょうけれど。
とりあえずこの段階で私が皆さんに問いかけたいのは、分類上のクラシック音楽の領域で1000を越えるレパートリーを持つ音楽家と、バッハのような人気作曲家とその他のジャンルの音楽数曲を演奏するアーティストと、どちらが幅広い音楽受容をしているかということです。
少し考えていただいた後は、本題に入りましょう。とはいえクラシック音楽とはなにぶんにも広い領域ですから、本格的に語るとなるといくら紙面があっても足りなくなってしまいます。そこで今回はオペラに絞ってきわめて概説的なことを申し上げるに止めることとします。
オペラ! ジャンルの特性上仕方のないこととは思いますが、これもやはり誤解の多い存在です。まず最初に覚えておいていただきたいのは、オペラとは最も下世話なジャンルであったということです。クラシックとそうでない音楽との二分法が確立した20世紀半ば以前まで、オペラとは最も下世話なジャンルだったのです。芸術的な格が高いとされたのは抽象的な作品であり、絶対音楽と呼ばれたもの、つまり交響曲にしろ室内楽曲にしろ、描写的であるより思弁的であり、かつ構成のしっかりとしたものの方が格が高かったということです。そしてオペラは常に描写的であり、構成も何もあったものではない場合が多く、しかも舞台という音楽以外の要素、不純物のごときものが混入することもあって伝統的には下世話なジャンルとして扱われていたのです。結局20世紀も半ばになると何もかも一緒くたにクラシックという枠組みの中に放り込まれ、オペラまで高尚なジャンルに組み込まれることとなったのですが、それは音楽史の観点から見るとごくごく最近の風潮に過ぎないのです。そして一口にオペラと言っても、本当は細かい分類があります。列記してみましょう。
オペラ・セリア:イタリア語
真面目なオペラです。高貴な人々、つまり王侯貴族やそれに類する人々が主人公になり、おおむね大変な目に遭います。このジャンルは廃れるのが早く、現代まで劇場のレパートリーに残るだけの傑作を残す前に放棄されてしまいました。そういうわけでこのジャンルの代表作は特にありません(T_T)。
オペラ・ブッファ:イタリア語
不真面目なオペラです。オペラ・セリアと違って19世紀に入ってもその命脈を保ちましたが、音楽的に充実した作品ははっきり言って少ない気がします。オペラ・セリアよりブッファの方がたいていは筋が複雑なのですが、その分台詞が多くなり、歌うよりも節を付けて語るような場面が多くなってしまうのです。そんなオペラ・ブッファから代表作を一つ挙げるのであれば、ドニゼッティの「愛の妙薬」を。これは後述するベルカント・オペラに分類した方がよさそうな気もするものですが、全編をきっちり歌い通してくれるオペラ・ブッファとなるとこれくらいしか思い当たらないのです。
ジングシュピール:ドイツ語
歌と芝居を組み合わせたもので、音楽抜きで台詞をしゃべってストーリーを進展させ、要所要所で歌と音楽が入ります。台詞の部分は退屈な場合が多いですが、演奏によっては省略する場合もあります。代表作はモーツァルトの「魔笛」。少し話が逸れますが実はオペラとは本来イタリア語でやるものという考え方がある時期までは非常に根強く、ジングシュピールも当初オペラには分類されていませんでした。モーツァルトもオペラを書くときはイタリア語を使い、ジングシュピールを書くときはドイツ語を、という風に使い分けているような時代があったのです。今の我々にはあまり関係のない分類ですが。
ドイツ・オペラ:ドイツ語
ジングシュピールの発展系です。台詞でストーリーを進めて要所で歌うというスタイルは変わりませんが、ジングシュピールより台詞が少なく音楽の比重が高いのが普通です。代表作はヴェーバー「魔弾の射手」。なんか誤解されているようですが、19世紀の話ですから射手といっても弓を使ってたりはしません。魔法の猟銃の弾丸が出てくるお話です。
ベルカント・オペラ:イタリア語
声を聞くためのオペラです。つまり重要なのは名歌手達の声を聴かせることだというコンセプトに基づくオペラなのです。オーケストラやストーリーがおざなりになっていることが多いと批判を食うことも多いジャンルですが、歌が好きならば楽しめるかと思います。代表作はベッリーニ「清教徒」を。普通の喉では歌えない超高音ががんがん出てきます。よくオーケストラ部がおざなりとも言われますがその辺りもベルカントらしいかと・・・
ヴェリズモ・オペラ:イタリア語
リアルなオペラです。本当はあんまりリアルではないかもしれませんが、とにかく他のジャンルのオペラよりはリアルな設定で展開するオペラです。登場人物はその辺の普通の人ばかりで、発生する事件も痴情のもつれとかそういう代物ばかりで、その辺のスケールの小ささがリアルなジャンルなのです。代表作はマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」と、レオンカヴァッロの「道化師」。どちらも他のオペラに比べると夢のない身近な設定の話です。そうは言っても最後はナイフでグサリとやりますが・・・
楽劇(ムジークドラマ):(癖のある)ドイツ語
ワーグナーのオペラです。本来オペラとは下世話なジャンルなので、気位の高いワーグナーが自分の作品はオペラなんぞとはひと味違うのだと主張すべく楽劇という新しい呼称を生み出したのです。普通のオペラより長く、熱狂的なファンがいるのが特徴・・・とは言ってもこれはジャンルの特徴ではなくワーグナーの特長でもありますが。お高くとまっている風でいてけっこう扇情的であったりもします。
オペレッタ:ドイツ語
オペラみたいなもの・・・ 例によって台詞と歌で話の進むジャンルですが、本格的なドイツ・オペラよりはノリが軽く、台詞の比重が高い傾向にあります。代表作はJ.シュトラウスの「こうもり」。それほどおもしろい作品でもない気はしますが、ウィーンでは年中行事の一環としてよく演奏されています。
コミック・オペラ:フランス語
これも台詞と歌で展開するオペラです。基本的には喜劇ですが、このジャンルの代表作であるビゼーの「カルメン」はけっこう嫌な話です。「カルメン」以外に頻繁に演奏される作品がなく今日では印象の薄いジャンルですが、昔はそうでもなかったようです。
グランド・オペラ:フランス語
大がかりなオペラ。登場人物もそれなりの大物であることが多く、ストーリーも仰々しいものになります。歌と音楽のみで展開し、しばしばバレエが挿入されるほか、派手な演出が行われたりもします。代表作はヴェルディの「ドン・カルロ」。後にヴェルディはこのオペラを改訂してイタリア語版も作っており、今日ではもっぱらイタリア語で歌われますが、初演時はフランス語でした。
現代オペラ
一応、20世紀に入ってもオペラは作曲され続けています。が、現代演劇に無理矢理音楽をつけただけとしか言いようのないものが多く、ほとんどの作品は聴くに堪えません。現代のオペラで重要視されるのは脚本と演出であって音楽ではないので致し方ないところではありますが、そろそろその方針を転換した方がいいように思われます。基本的に耳で聴いて楽しむものではないので、普通の人には勧めません。
・・・とまぁ、色々ジャンルを書いてみましたが、このジャンルに当てはめられることのない作品もたくさんあります。つまり19世紀に入るとオペラの伝統的な様式が徐々に破壊されていき、ジャンル分けの難しい作品が数多く書かれるようになったのです。またオーストリア人のモーツァルトがオペラ・ブッファを書くためにイタリア語を使ったりイタリア人のヴェルディがグランド・オペラを書くためにフランス語を使ったりと、昔は様式と言語の結びつきも強いものでしたが、この結びつきを無視して書かれた作品も19世紀になるとやはり数多く書かれるようになりました。そしてこの分類不能の作品群に方にこそ、実は傑作が多かったりします。そういうこともあって上記のジャンル分けは現在ではほとんどその意味を失っているとも言えるのですが、一口にオペラといっても色々なタイプがあるということだけは知っておいてもらいたかったのです。
さてジャンルを概観した次は、演奏者の分類にもごく簡単に触れておきましょう。
指揮者:全体を統括する存在です。一般に成立年代の新しい作品ほど指揮者の重要度が高くなるほか、イタリア語圏の作品よりドイツ語圏の作品の方が指揮者の重要度が高くなる傾向があります。現代オペラを別とすればオペラの主役はあくまで歌なので、歌手さえしっかりしていれば指揮者などどうでもいいと言えるような作品も少なくありません。しかし重厚長大な楽劇やグランド・オペラではこの統括者の存在は重要になってきますし、真の傑作は歌だけではなく管弦楽パートもしっかりと書き込まれているものなのです。そこで指揮者のbPにはヘルベルト・フォン・カラヤンを挙げます。あまりにも有名なので挙げるのがためらわれるような存在でもありますが、一応説明しておきますとオーストリア出身の元ナチ党員で、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を長く務め帝王の異名を取っていた人です。音楽界におけるビル・ゲイツともいうべき存在で、存命中は彼の一人勝ちのような状況が長く続きましたが、ゲイツ同様に最も悪く言われることの多かった指揮者でもありました。彼の振ったCDにはまずハズレがありませんので、誰の演奏を買うか迷ったらとりあえずカラヤンの演奏を買えば大丈夫です。
テノール(T):男性歌手の高音域担当で、基本的には二枚目の主人公役です。力強い二枚目である場合となよなよした二枚目である場合の2パターンがありますが、前者の場合はたいてい話の最後で死にます。またドイツ語圏のオペラではおちゃらけ役にまわることもあります。この部門の代表者としてはルネ・コロとルチアーノ・パヴァロッティを挙げます。コロはワーグナーを得意としたヒロイックなテノール歌手で、ドイツ語圏のテノールとしては最高の美声を誇る存在でもありました。パヴァロッティというのはよく馬鹿高いチケットを買わせてはサッカースタジアムでポピュラー歌手と競演している太った爺さんですが、20年くらい前までは、それはもう素晴らしい歌手だったのです。是非彼の昔の録音を聴いてください。
バリトン(Br):男性歌手の中音域担当。真面目なオペラでは渋い脇役を、不真面目なオペラでは重要なおちゃらけ役を担当することの多い声域です。19世紀以降には真面目なオペラで主役を務めることも多くなりますが、その場合は話の最後で死にがちです。代表者としては長らくヴェルディ・バリトンの第一人者を務めたピエロ・カプッチッリを挙げます。
バス(Bs):男性の低音域担当。悪役が多いです。バリトンも悪役にまわることが多いですが、バリトンの場合悪役は悪役でもそれなりに同情の余地のある渋い悪役であることが多い訳です。対してバスの場合は単純に悪い奴である場合が多く、しばしば主人公やヒロインを殺したり死刑を宣告したりします。まれに主人公を務めることもありますが、その場合最後はほぼ確実に死にます。代表者はルッジェーロ・ライモンディを。今ひとつ録音に恵まれていない気もしますが、主人公より人気の出そうな格好いい悪役をイメージさせる歌手でした。
ソプラノ(S):女声の高音域担当。ほぼ例外なくヒステリックな性格を演じることになります。深窓の令嬢タイプである場合もありますが、ストーリーが進むにつれてだんだんキレてしまうので結果は同じです。また、ヒロインを務めることが多いため必然的に死ぬ場合が多くなります。代表者はグンドゥラ・ヤノヴィッツを。何故かあまり評価の高くない人ですが、数限りなく聴いてきたソプラノ歌手の中でも最高の美声の持ち主です。やや暗めの落ち着いた声音で薄幸の美人が似合うタイプですが、派手な役柄でも対応力の高さを発揮していました。
もう一人、史上最高のプリマ・ドンナの呼び声高いマリア・カラスの名前も挙げておきます。この人はヤノヴィッツとは正反対の人で評価が高く(それはもう異常なまでに)、荒れた太い声の持ち主でした。歌手生命が短かったにもかかわらず録音にも非常に恵まれているわけですが、はっきり言って後世に聴き継がれる価値のあるものとは思えません。汚らしい怒鳴り声が聴きたい人、権威が好きな人以外は避けた方が良いでしょう。
メゾ・ソプラノ(Ms):女声の中音域担当。主役の場合も脇役の場合もありますが、どちらの場合も悪女であるのが普通です。フランス語圏のオペラ、オペラ・ブッファではソプラノを押しのけて主役を務めることも多いですが、それ以外では損な役回りに立たされることも多いです。オペラ界ではよくズボン役といいますが、少年の役をこのメゾ・ソプラノが担当することも多いです。代表者はフィオレンツァ・コッソットを。録音が少ないですねと聞かれたのに対し、自分は英語をしゃべれないからレコード会社の連中と話が通じないんだと答えたと伝えられる彼女ですが、録音はイギリスのレコード会社に多いです。
アルト(A):女声の低音域。婆さんの役・・・ 遙か昔はアルト歌手が主役を務めるオペラもかなりあったようなのですが、今日我々が普通に耳にできるような劇場のレパートリーにはそんな古い作品は滅多に含まれていません。ナタリー・シュトゥッツマンというアルト歌手に言わせると、「絶滅寸前の声域」だそうです。不純なオペラではなく純粋な声楽作品ではけっこう良い役が当てられたりもするのですが。
で、手短に書こうとしたのに結構な分量になってしまいましたが上記のことは前置きでして、重要なのはここから先であったりします。私としてもオペラを知ってもらおうというのではなく聴いてもらおうと考えているわけですから、上記のオペラの基礎知識云々だけではなく是非CDを買ってきて聴いてもらいたいわけです。そういうわけで、ここからは私が責任を持って推薦できる名曲の名演奏のCDをいくつか紹介します。特別にこの曲が聴きたい、という人でなければまずこのリストにあるものからチャレンジしてみるとよいと思います。作曲者「曲名」指揮者、演奏団体、主な歌手(レーベル)の順に並べておきました。見慣れないカタカナばかり並んでいるように見えるかもしれませんが、店頭で探すときの参考にしてください。
プッチーニ「トゥーランドット」カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ドミンゴ、リッチャレッリ、ヘンドリックス、ライモンディ他(グラモフォン)
舞台は北京。トゥーランドット姫の出す3つの謎に答えられればトゥーランドットをものにできるが、答えられなければ斬首という法令が施行されている。異境の王子カラフはこの謎に挑み勝利するが、よせばいいのに今度は逆にトゥーランドットに謎を出す。「私の名前は?」と。かくてトゥーランドットは彼の名を暴くべく、カラフの父ティムールとメイドさん?のリューを捕らえ、拷問にかける。御主人様のため秘密を抱えたまま死んでいきましょうと、自害するリュー。その姿に心を打たれる北京の民衆とトゥーランドット姫。最後は姫も心を開き、カラフ王子と結ばれる。めでたしめでたし。あまりにもリューが可哀想なのが泣ける。しかもプッチーニはリューが死ぬ場面まで作曲したところで死んでしまったため(死因は煙草の吸いすぎ・・・)、そこから先は別の作曲家が手を加えて完成させたのであり、少々違和感がある。リューが死んだところで聴くのをやめるというのも一つの手だろう。ちなみにこの録音、トゥーランドット役のリッチャレッリが役に合っていないとよく批判されるが、私としてはむしろ適役だと考えている。
ヴェルディ「ドン・カルロ」カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、カレーラス、フレーニ、カプッチッリ、ギャウロフ、バルツァ、ライモンディ他(EMI)
新教徒を大々的に弾圧していた時代のスペイン、恋人のエリザベッタが政略結婚のため父フィリッポの後妻に収まることになってしまったカルロ王子を中心に、新教徒救済のために策動するロドリーゴ伯爵、フィリッポの愛人でありながらカルロに思いを寄せるエボリ公女などが様々に事態を悪化させていく物語。終いには親子の対立関係が致命的なものになるが、その時墓の中からカルロ5世(カルロ王子の祖父、フィリッポの父、神聖ローマ帝国皇帝も兼ね、ヨーロッパ最強の君主といわれた)が現れ、カルロ王子を墓の中に引きずり込んでしまう(矢追純一氏によるとカルロはUFOに連れ去られたらしい)。何かと派手なオペラだが、最大の聴き所は審問官がフィリッポにカルロとロドリーゴの処刑を迫るシーン。音楽も凄いが、歌詞もなかなか怖い。
ワーグナー「ニーベルングの指輪」カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ヤノヴィッツ、デルネシュ、スチュアート、リッダーブッシュ、シュトルツェ、ヴィッカーズ、トーマス、ブリリオート、F=ディースカウ他(グラモフォン)
CD14枚組の超大作を挙げるのもどうかとは思うが、長さを別にすればけっこうわかりやすい音楽でもあるので敢えてリストアップした。あまりに長いのでストーリーは紹介しない(MODO70号掲載の「MODOのアレ13」の注釈部にこの大作のあらすじを掲載してあるので、興味があればそちらを)。分売もあるが、その場合は「ラインの黄金」「ヴァルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」の4つに分かれる。単独で聴く分には「ヴァルキューレ」がおすすめ。ぜひともジークムントとジークリンデの禁断の愛(ジークリンデはジークムントの実の妹である、義理の妹じゃないのだ!)に燃え(萌えと書きたいところだが、萌えと書くには血なまぐさい・・・)てほしい。
プロコフィエフ「炎の天使」ゲルギエフ指揮キーロフ劇場管弦楽団、ゴルチャコワ、レイフェルクス他(フィリップス)
私には炎の天使マディエル様が憑いてんのよ! と強硬に主張するキチガイ女レナータと彼女に健気にくっついていく騎士ループレヒトの物語。突如占い師が発狂したりポルターガイスト現象が始まったりする内はまだ普通だが、アグリッパが出たりファウストとメフィストフェレスが出たり、挙げ句の果てには暗黒舞踏まで登場し、何だかよくわからない内に幕が閉じる。一番の聴き所はループレヒトがアグリッパを訪ねてゆくくだり、格好良すぎて鼻血が出ちゃうぜ!
R.シュトラウス「エレクトラ」ベーム指揮ドレスデン国立(州立)歌劇場管弦楽団、ボルク、F=ディースカウ、マデイラ、シェヒ、ウール他(グラモフォン)
いつか弟のオレストが戻ってきてあんたなんかズタズタに切り刻まれちゃうんだからね! と日々母親(情夫と組んで夫アガメムノンを殺害した)殺害を夢見る狂女エレクトラの物語。全編通して絶叫を続けなければならないのでエレクトラを歌うと歌手寿命が縮むことで有名。一度は死んだと伝えられたオレストが帰ってきて母親とその情夫を斬殺するが、その際の悲鳴とエレクトラの勝利の歓声が聴き所。
モーツァルト「魔笛」クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団、ポップ、ヤノヴィッツ、ゲッダ、ベリー他(EMI)
日本の服を着て(そういう風に台本に指示されているのだ)登場する男タミーノ。彼は怪しげな宗教団体のボス、ザラストロに拉致された娘パミーナを取り戻してくださいと、夜の女王から依頼される。タミーノは魔法の笛の力も借り、幾多の試練を乗り越え、パミーナと出会い、苦難の末にザラストロの教団に入信する。めでたしめでたし。聴き所は夜の女王の2番目のアリア。夜の女王はタミーノに娘の救出を依頼しておきながら心配になって?結局自身もザラストロの教団までやってくるのだが最後に奈落に落とされてしまう。ちょっとひどすぎる気もするが、その分音楽的にはおいしい役柄でもある。なおここで紹介した録音は台詞を全てカットしてあるので無駄なく楽しめる。
ワーグナー「パルジファル」カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、モル、ダム、ホフマン、ヴェイソヴィチ他(グラモフォン)
少々古いものなので恥ずかしいが、「パルジファル」のあらすじはMODO68号掲載の「MODOUNOARE」に割と詳しく書いた。この作品も筋が込み入っているのでこの場でのあらすじ紹介は避けるが、清らかな生活を送る人々の輪に入れてもらえなかった腹いせにHなお姉さんを養成して清らかな人々を誘惑しようとする悪い人など登場人物は個性派揃いである。表面上はわかりにくい筋書きに辟易させられることもあろうが、音楽は意外にわかりやすい。この録音だと主役のパルジファルやクンドリ(Hなお姉さん?)役の歌手が今ひとつだが、オーケストラが何とも絶妙なのだ。
プッチーニ「ボエーム」カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、パヴァロッティ、フレーニ、パネライ、ハーウッド他(デッカ)
自称詩人と自称画家と自称音楽家と自称哲学者という甲斐性なし4人組と2人の若い女性の甘く切ない?恋物語(か?)。はっきり言って設定がまともすぎてストーリー的にはおもしろくないが、音楽は良い。この録音ではまだちゃんとした歌手だった頃のパヴァロッティが聴けるし、他の歌手も好演。なおプッチーニではこのほかに「蝶々夫人」(米軍兵士が15歳の日本人女性に子供を産ませてしまう話)も有名だが、この作品は淫行条例に引っかかるので推薦リストからは外した。
プッチーニ「トスカ」カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、カレーラス、リッチャレッリ、ライモンディ他(グラモフォン)
ナポレオンがヨーロッパを席巻していた時代の物語で、革命派と反革命派が相争うローマを舞台にドラマが展開する。そんななか画家のカヴァラドッシは当局に指名手配されている政治犯の友人を匿い、逮捕される。しかし警視総監スカルピアの狙いは政治犯のあぶり出しではなく、カヴァラドッシの恋人トスカの体であった。カヴァラドッシを処刑されたくなければとトスカに関係を迫るスカルピア、トスカは一旦は従う素振りを見せつつも、隙をついてスカルピアを刺殺! しかしカヴァラドッシは銃殺に処されてしまい、絶望したトスカは投身自殺する。聴き所満載の作品ではあるが、なかでもスカルピアがトスカに迫るシーンは是非聴いて欲しい。ライモンディは少し抑えめの歌唱だが、この手の役柄にはぴったりの歌手である。
ジョルダーノ「アンドレア・シェニエ」ガヴァッツェーニ指揮サンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団、デル・モナコ、テバルディ、バスティアニーニ、コッソット他(デッカ)
フランス革命を時代背景に、処刑されていく詩人シェニエ、シェニエに思いを寄せる零落した貴族の令嬢マッダレーナ、元は彼女の召使いでありながらシェニエの言葉で革命に目覚め、革命政権の有力者にのし上がったジェラールといったところを中心にドラマが展開する。かなりまともな話なので、特にあらすじは紹介しない。話はつまらないがアリア(独唱部、ストーリー展開にはほとんど関係しないが、歌手にとっては見せ場となる)にいいものが多く、その他にもなかなか渋い歌が多い。ここに挙げた録音だと、マッダレーナ役のテバルディが私には不満を感じさせるが、他の歌手は素晴らしい出来栄えである。
ショスタコーヴィチ「ムツェンスクのマクベス夫人」ロストロポーヴィチ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ヴィシネフスカヤ、ゲッダ他(EMI)
間男と組んで舅を殺害し、余勢を駆って亭主まで撲殺した女傑エカテリーナの物語。結局捕まるが、そこで間男が別の若い女囚とくっついたと知るや、今度はその女囚を道連れに凍てつく冬の川へと死のダイブ! 普通の中流家庭の物語なのに聴き所満載で、下男達がメイドさん?にセクハラを働くシーンや間男が奥さんを押し倒すシーン、出歯亀をしていた舅が間男を捕まえて「血が流れてるぜ!」と叫びながら鞭をふるうシーン、酒蔵に不法侵入した酔っぱらいが腐乱死体を発見するシーンなど、普通の中流家庭が舞台のはずなのに異様にテンションが高い。ちなみにショスタコーヴィチはこの作品をフィアンセに献呈した。
とりあえず勢いに任せて11組ほど列挙してみました。必ずしも世評の高いものばかりではありませんが、どれも買って損のない名曲の名演です。ところが、ここに至ってもまだ注意事項があるのです。まず最初に、購入時の注意事項ですが、それは「歌詞対訳の有無を確認すること」です。
何はともあれオペラは歌ですから、やはり誰が何を歌っているのかを知っておくに越したことはありません。イタリア語やドイツ語の歌唱を耳で聴いて直接理解できるような強者ならいいのですが、普通は無理なので歌詞とその対訳の世話になることになるはずです。ところが歌詞対訳は結構なページ数になるのです。そしてCD制作の上で一番コストのかかるのがこの歌詞対訳なのです。そういうわけでコスト削減のため、近年ではほとんどの国内CDにこの歌詞対訳が付されていません(人気絶大のカラスが出演しているCDは例外ですが・・・)。
そこで次善の策として輸入CDを買うことを薦めます。そもそもオペラのCDは国内盤ではほとんど流通しておらず(例によってカラスのCDだけは特別で、いつでも購入可能・・・)、輸入盤でしか手に入らない曲目が多数を占める有様なのですが、その輸入盤の場合は大手レコード会社制作のものであればほぼ確実に歌詞対訳が付されています。輸入盤ですから対訳と言っても日本語訳は収録されておらず英訳を読むことになるでしょうが、それでもないよりはマシと諦めてください。ちなみこの業界の大手レコード会社というのはグラモフォン、デッカ、EMI、フィリップス、RCA、ソニーの6社で、どれも経営状況は思わしくなかったりするようですが、とりあえず大手の地位を保ち続けています(グラモフォン、デッカ、フィリップスの3社は既に同一企業の傘下におさめられており、いずれ整理統合されるものと考えられます。またソニーもクラシック音楽部門はあくまで総合レーベルとしての格好付けのために存続させていると暗に認めているくらいで、いつかリストラの対象になるかもしれません)。
もう一つの注意点は、いざ実際にCDを聴くときの音量です。人によって好みの音量はあると思いますが、基本的にクラシックのCDと他のジャンルのCDでは録音レベルに違いがあります。一般にクラシック音楽はダイナミックレンジ(大きい音と小さい音の差だと思っておいてください)が他のジャンルより広く、そしてそのCDは大きい音に合わせて録音されています。なので普通に再生すると演奏上の大きい音が普通に聞こえ、小さい音はほとんど聞こえないということになってしまいます。音が急に大きくなったり小さくなったりするのはジャンルの特徴ではありますが、この傾向が他のジャンルより強いためにあらぬ誤解を生んでいるように私には思われるのです。
つまり大きい音の方に合わせて再生音量を設定された場合、全体としては非常に静かに聞こえてしまうのです。ゆえにクラシックとは静かな音楽であるというイメージが不本意な形で確認されてしまうおそれがある訳でして、この誤解を解いてもらうために是非、小さい音がくっきりと聞こえるだけの音量でCDを聴いてほしいのです。そうすればあらぬ誤解は解けるはずです。オペラCDの場合静まりかえったと思ったらいきなり悲鳴が鳴り響いたりするので下手に音量を上げて聴いていると時にやばい感じですが、せっかくの絶叫をおとなしい音量で聴いてほしくもないのです。
2002/7/1
浅野 知史